戦争を知る世代の死と世代をつなぐということ

あまり僕が書かない身辺のことだが、祖父の弟が、奇しくも死んだ祖父の誕生日に亡くなった。
祖父は四人兄弟で、ふるさとに生まれ、戦火をくぐりぬけ、三人はふるさとに骨を埋めた。
僕が知るのは祖父を含めたその三人で、三人に関して、もっとも鮮明に記憶しているのは、ある日小学校から帰ってくると、祖父が生き写しのようにそっくりな人とお酒を酌み交わしており、「じいちゃんが三人いる!」と無邪気に言いはなったのをほろ酔いの三人に和やかに迎えられたことだ。


その時以来、盆や正月にたまに顔をあわせて挨拶するくらいなもので、僕の感覚では、祖父の弟は、遠い親戚の一人でしかなかった。
ふるさとで生まれ、学生時代だけふるさとを離れ、ふるさとで働いている僕は当然その感覚のままに通夜に参列した。


そして、僕は通夜で出会った。
それは誰とかいえば、、、
死んだ祖父とであった。


個人を偲ぶ写真のスライドショーが流されていたのだが、僕が知らない、若かりし祖父と、祖父の弟夫婦の写真があった。
その写真をきっかけに、自分の記憶からうすれつつあった祖父がよみがえってきたのであった。
その写真はいわくつきで、祖父の弟夫婦は、祖父がキューピッド役だったから、祖父が祖父の弟の父親然として、祖父の弟夫婦が座る後ろに、誇らしげに立っている写真だった。
祖父は祖母の妹の結婚を世話しており、要するに世話焼きだったのである。
当然そんな人だから、酒好きで、小学生時代の僕は、相撲を見ながらの祖父の晩酌に、酒の肴のお刺身目当てだったのだが、付き合ったものだった。


そんなところが出発点であったが、祖父のことを思い出して気づいたこと。
祖父が僕に語ってきたことについて、僕のなかでの解釈が変わってきたことだ。


祖父は酒を飲んでいるとき、戦争の話もしてくれた。
遠い昔の悪夢を思い出すように、固く目を閉じて、「今となっては考えられないことでしょう」という決まり文句をつけて。
それを聞いて幼い僕が思ったのは、「戦争は悪いことだ。戦争放棄を謳う憲法第九条は正しいことだ。」


でも、今になって考えると、祖父が言った戦争はいけないってのは、九条に総論賛成なのだが、文脈が九条とは違っており、僕は幼い頃その辺を誤解していた気がする。


というのは、祖父は戦争で、海軍に所属し、甲板警備の折りには、隣の戦友が機関銃で撃たれ、戦死したと話していた。
そんな思いはしたくないし、させたくないというのが第一にあるのは確かだ。
しかし、思い出してみると、祖母が僕に戦争体験を話して聞かせたときに、祖母に、祖母は祖母で大変だっただろうけど、兵隊を経験したわけではないだろうともいっていた。
祖父のなかには、日本のために戦い抜いたという自負があり、そのこと自体は貴としていたということだ。


つまり、日本に何かあったときは、武器を手にしてでも、戦う覚悟は持ちつつ、戦争はいけないことだから、もう二度とすべきでないというのが実のところではないかと思う。


その意とすることと、祖父や祖父の弟の生は、反することなく、僕らの親の世代も僕らも、戦争を知らない世代としてつないでくれた。
つなげることができたのは、まさしく戦争状態から脱し、人間らしいくらしを取り戻せたからにほかならない。


人間らしいくらしに、武器は必要ないのか。
戦争をするには武器は必要だが、武器があるから戦争をするのではない。
例えば、暴漢におそわれたとき、誰しも手元に鉄パイプでもあれば、それを武器に応戦するだろう。
その武器がかりに暴漢をあやめたときに、正当防衛という考えが認められず、罪人になってしまうことを公正とする世の中であってほしいか。


祖父母たちの人間らしいくらしを省みると、次の世代を生み増やし、世代をつなげることもひとつの要件としてあった。
僕らの親の世代はどうだろう?
戦争がないにもかかわらず、生み増やすことには失敗しているし、僕らの世代もそれに続く傾向にある。
思うに、それは子育てが親の責任であるという当然の覚悟を持たず、過度に保育行政に押し付けようとする傾向もひとつにあるだろうし、祖父のように世話焼きが減っていて、次世代を生み増やす意識もうまく醸成されていないことがあるだろう。


問題は多いまま、僕らにバトンがいやが応にもまわってくる。
父母を、祖父母を思いだし、そして知恵を絞って、ことにあたっていかなければならないことを、祖父との再会が思い至らせてくれた。