ロックの精神性について〜「怒哀」と普遍性

「ロック」と聞いて連想するものは?と問われて何を答えるだろう。
セックスピストルズMC5、日本では忌野清志郎みたいな人たちが体現するもの?
もちろんそれは僕も連想する。


しかし、僕は、たとえばDAIGOをみても、ロックをあまり連想しないし、ロッカーを自称する人から、ロックを連想することがちょっと困難だ。


ただ、僕は、柴田淳はロックな人だと思うし、やなせたかしもそのように思う。
それは、僕のなかでのロックは、「喜怒哀楽」の「怒哀」が要素であると考えるからだ。


ロックのルーツは、もちろん黒人音楽を含めた民族音楽である。
それはリズムアンドブルースだったり、カントリーだったりするわけだが、僕が考えるロックに通底しているのは、抑圧や不条理から生まれたやり場のない怒りや悲しみが込もっているということだ。


たとえば、ジョン・レノンの「イマジン」やボブ・ディランの「風に吹かれて」を想像してほしい。

ジョン・レノン「イマジン」
Imagine there's no Heaven(天国はないと想像してごらん)
It's easy if you try(それはかんたんなことだろう)
No Hell below us(私たちの足下に地獄はないし、)
Above us only sky(上には空が広がるだけ)
Imagine all the people (想像してごらん)
Living for today...(すべての人が今を生きているということを)

Imagine there's no countries (国がないと想像してごらん)
It isn't hard to do(難しいことじゃない)
Nothing to kill or die for(殺しあう理由も死ぬ理由もない)
And no religion too (それは宗教がないと想像しても同じこと)
Imagine all the people(想像してごらん)
Living life in peace(すべての人が平和な生活を送っていることを)

ボブ・ディラン「風に吹かれて」
How many times must a man look up(何度見上げれば)
Before he can see the sky? (空は見えるのか)
Yes, 'n' how many ears must one man have(どれだけの耳があれば)
Before he can hear people cry?(人々の泣き声を聞けるのか)
Yes, 'n' how many deaths will it take till he knows (どれだけの死があれば)
That too many people have died?(あまりにも多くの戦没者を知るのか)
The answer, my friend, is blowin' in the wind, (友よ、その答えは風のなかにある)

どちらも、反戦歌の文脈で語られるものでもあるわけだが、天と地や風のなかで、人の業が引き起こすやむことのない争いへの、静かで深い怒りと哀しみ、そして無常観とが横たわっている。
この二曲は、名曲として、広く世界に知られているわけだが、それだけの普遍性があるとすれば、怒りや哀しみであると言えよう。


となれば、日本のそういう普遍性の表現者として誰を挙げるかについて、僕は、柴田淳や、さらにはやなせたかしを、挙げてしまうわけだ。
柴田淳は、片想いの哀しさを歌わせたら、右にでるものはないんじゃないかというのは、過去のしばじゅん関係エントリーを参照いただきたい。


やなせたかしについては、

「手のひらを太陽に」
生きているから 悲しいんだ
手のひらを太陽に 透かしてみれば
真っ赤に流れる 僕の血潮
ミミズだって オケラだって アメンボだって
みんなみんな生きているんだ 友達なんだ

手のひらを太陽に - Wikipedia
作詞者のやなせは、「厭世的な気分になって追い込まれていた時のことです。暗いところで自分の手を懐中電灯で冷たい手を暖めてながら仕事をしていた時に、ふと手を見ると真っ赤な血が見える。自分は生きているんだという再発見と、その喜びを謳歌して頑張らなくちゃと、自分を励ますためにこの詞を作った」と述懐している。

アンパンマンマーチ」
そうだ。うれしいんだ生きる喜び。
たとえ胸の傷が痛んでも

「手のひらを太陽に」を作ったときが、やなせにとって大変な時期だったことは、ウィキペディアにあるとおりだ。
悲しさが織り込まれた人生賛歌だからこそ、口々に歌い継がれる普遍性を得ているのではなかろうか。
アンパンマンマーチ」も同様で、生きる喜びを歌うのに、胸の傷という苦を引き合いに出し、その裏にあるドラマを織り込んでいる。
だから、味わい深くひきこまれる感覚が、やなせの詩にはある。


「怒哀」を要素としているからこそ、ロックは世界商品たりえたのではないか。
それも、多くは歴史性をせおっていて、民族や人種の問題がそこには横たわったうえでの、やり場のない「怒哀」である。
そもそも、喜びに同情するとは聞かないが、不幸や哀しみに同情するのはよく聞くことだ。
この心性って、説明しがたいところで、本能のようなものなのかもしれない。
だから、僕は、その本能に作用する要素があるものを、ロックと定義したほうが、カウンターカルチャーとしての存在も際立つのだし、よいのではないかということがいいたかったために、ちょっと無理がある部分も含めて極端を述べたのである。


なにぶん、「ロック」とはという、大風呂敷を広げてしまったので、なかなか収拾しないのだが、いろんな楽曲に触れ、もう少し語っていけたらと思っている。
それはまた別の機会に。