継続の前提としての受容〜桂三枝の創作落語「赤とんぼ」と城南海「アイツムギ」

「新婚さん、いらっしゃい」の「いらっしゃ〜い」は、誰もがその口吻を真似たことは誰しもあることだろう。
そして、椅子の角を丸くしてまで、豪快にこけ、めりはりに欠ける素人の話に起伏をつけるその名司会ぶりもご立派。
日本の誰もが知っている吉本の師匠のなかの師匠といえば、そう、桂三枝御大である。


テレビでの司会ぶりは、よく知っていたのだが、その落語を耳に入れたことは、一度もなかった。
10/31の博多・天神落語祭りで、はじめて聞く機会を得たのだが、さすがに師匠と慕われる人は違ったので、紹介しておく。


私が見た公演では、大トリで演目は「赤とんぼ」。
ttp://www.veoh.com/browse/videos/category/entertainment/watch/v190744636NYEHQZj
↑動画

↑早く「赤とんぼ」もDVD化されて欲しいものです。


特殊な趣味をもつ部長、部長のその趣味にいやいやつき合わされる部下・・・
ありがちな人間関係を基軸に、落語は展開する。
その部長の特殊な趣味が童謡。
保母を嫁にもつ部下は、うっかり童謡を社内で口ずさんでしまい、童謡酒場「赤とんぼ」に連れて行かれてしまうのだが・・・


というのが、落語の概要。
私がおっと思ったのは、「どんぐりころころ」の解釈。
誰もが知ってのとおり、どんぐりが転がって池に落ちて、どじょうと仲良くなる(1番)
でもどんぐりは、山が恋しくなり、泣き出して、どじょうを困らせる始末(2番)
それを見かねたリスが、落ち葉にどんぐりをくるんでおんぶして、山に帰す(3番)
というのがあらすじ。
落語のなかの部長は、どんぐりころころが子どもたちに伝えたい核心を次のように語る。

山のどんぐりと池のどじょうが仲良うすんねんで。全然違う環境のもんでも仲良うできる。


そしてかく語った部長は、4番の歌詞を自作したとして披露する。

どんぐりころころ帰ったら
おやまで仲間が拾われて
お話し相手がいなくなり
どじょうに会いに転がった

「どんぐりころころはエンドレスになったんや」という前置きのとおり。
1番の場面にこれで戻るわけだが、それにしたがって「どじょうが出てきてこんにちは」の「こんにちは」の部分が「またきたか」とか、繰り返しの回数ごとに変わるんやと戯れる。
そのことについて、「こういうもんやねん。冷たくなったり、仲良うしたり、冷たくしたり、仲良うしたりして、生涯の友になっていくんやなあ。」と一般化する。


一生もん、延々と続いていくものを手に入れるプロセスってこんなもんだなと大いに納得してしまった。
というのは、結果を求めることが前提ではなく、受け容れることが第一にあるという点である。


ここで、前回の拙エントリーでも「歌詞が染みる」と取りあげた、城南海の「アイツムギ」の一節を紹介したい。

http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND73415/index.html
作詞:川村結花
(前略)
勝ろうとして ひざまずかせて
あなたに一体 何が残ろうか

環境保護や企業の社会的責任の強調の文脈において言われるようになってきたサステナスビリティ(持続可能性)。
市場主義に代表される競争原理と相容れない部分を、うまく言い当てているように思う。

アイツムギ

アイツムギ

勝ろうとして、弱者をひざまずかせる。
弱者はその根本を否定され、疎外される。
こうやっていけば、一部の限られた成功者だけが残り、疎外がすすんでいけば、おのずとその世界のパイは縮小する。


現実の世界は、競争原理一辺倒でないから、そんなことは起こらないわけであるが、力があればこそ心しなくてはならないことは確かである。
冷たくしたり、仲良くしたり、そんなプロセスを切り捨てるのではなく続けていく、弱者をも受け容れる器であらんことを。
さもなくば、訪れるのは孤独である。映画「市民ケーン」の新聞王のような。

市民ケーン [DVD] FRT-006

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