地方を標榜するからには〜「結婚したい、してほしい・・・」『家の光』6月号

1年ほど前のエントリー群で、田舎と都会をテーマにしたものがあったので、改めて取りあげてみる。

田舎は好きだが、それでも東京を選択する。 - ミームの死骸を待ちながら
田舎の欠点を上げることがこの記事の目的では全くないが、逆の視点として、田舎の特徴的な点をアバウトに表現してみると、「良い意味・悪い意味の双方で世界が狭い」。どこに行っても知り合いがいる。勝手知ったる境遇で生きていく。XさんとこのYちゃんがこないだアレしたらしいよー、というネットワークの密さ。それだけで完結している。完結している世界は外部に対して能動的に働きかけない。ただ外界の変化に合わせて伸び縮みするか、緩やかに衰退して行くのみだ。

この逆をとって、完結を壊す活動があれば、活性化につながると僕は見たい。
むしろ壊す人になりたい。

田舎の人は循環する時間という「宗教」を信仰している - アンカテ
私の友人は、彼の父親とは全く違う若者時代を送っていたけど、おそらく、今は、彼の父親と全く同じように地元で暮らしていると思う。彼の家は、そうやって「お変わりなく」継続していく。(中略)
田舎とは、そうやって循環する時間のことではないかと思う。
(中略)
これからの日本の課題は、「循環する円環的時間感覚」と「発展する直線的時間感覚」という二つの宗教の主導権争いと捉えるべきではないかと思う。 100年戦争をやって互いに疲弊してしまう前に、何とかそこに深入りしないで現世のことを片付けていく知恵を見つけなくてはならない。

二元論的に捉えきるほど、単純ではないと思うが、当たっている部分もあると思う。
「お変わりなく」が通用してきた文脈のはじまりは、鎖国していて一次産業と少しの二次・三次産業で成り立っていた江戸時代ではないか。
維新で大きく変わり、そこからマイナーチェンジを繰り返し、戦前で一度行き詰まり、戦後の再出発から均衡ある国土の発展のおかげで「お変わりなく」(おそらく田舎と都会問題だけでなく、日本的な終身雇用もこの部類にはいるだろう)も生き残れていたけれど、終焉を迎えようとしている。
ということで、100年戦争をやるもなにも、維新や大戦ほど急進的にやれるインパクトがないので、緩やかな「お変わりなく」のスクラップビルトが、今後の潮流だと思う。


ということで、『家の光』感想文だの書いてきたこのはて駄だが、地方の「お変わりなく」のスクラップビルトとか、完結を壊したりとかする方向で、考えたりしたことを書いたり、それと文化(とくに音楽ネタ)を絡めていく方向で、改めて筆を進めることとしよう。


前置きがとても長くなったが、標題について。
要は成功例たる↓の取り組みの紹介が主となっている。
http://ja-seinenbu.hp.infoseek.co.jp/midori/midori.htm


この取り組みこそ、完結を壊したりする方向の一端ではないかと思う。
人を呼び込む内容を自ら働きかけて作っているところに取り組みのすばらしさがある。
今朝のNHKのニュースでも婚活事情が取りあげられていたが、面白いものに、さぬきうどんを一緒に作る合コンっていうのがあった。
こんな活動って、都会でやるより地方でやるほうが、ムードはいいんじゃないか。
というのは、さぬきうどんだのドメスティックな資源って、実はいわゆる田舎のほうが豊かで、それは密な人間関係を強要されるということを家庭の一面として捉えるのであれば、田舎的なあり方と親和性が高いからと言えよう。


都会から地方へという人の流れを呼び戻す方向を志向する僕は、都会賛美者を振り返らせる努力をしなければならない。
この取り組みは、まさに僕が目指す方向の先駆者である。
優良事例としてこれを援用するための課題を整理すると、実は都会と地方の違いは冒頭に参照したエントリーが言うほど大仰なことでなく、人を呼び込む「情報発信力」「営業力」の圧倒的な違いがあるということに気づかされるのである。