大女優の人生の楽しみ方に学ぶ〜ぴったんこカン・カン「吉行和子&冨士眞奈美といく地デジ応援の旅」

TBSのぴったんこカンカン吉行和子冨士真奈美が出ていた。
この二人が安住紳一郎とふらっと出かけて、旅番組よろしくレポートするという、一見どうってこともない企画である。
というか、この二人。
岸田今日子が生きている頃は三人で旅番組にでていたものだが、さすがは往年の大女優。
ただ者ではない。


ぴったんこカンカンの企画にあっては、この企画は恒例化しつつある。
細かいコンセプトはというと、二人と安住は、ふらっと出かけてレポートするだけではなく、俳句を詠むのである。
この企画のみどころは、なんといっても二人と安住の掛け合いと、俳句をとおして明らかになる、この二人の人生の楽しみ方である。


二人は、往年の大女優であるのだが、旅番組の企画では、ただの年相応の女性で、なんといっても、馬が合うもの同士。
吉行は冷静でちょっとストイックさを感じるしっかり者で、富士はお調子者で、袖ふれあえば多生の縁式に誰とでも仲良くなってしまうキャラクターのバランスも絶妙だ。


印象的だったのは、喫茶店でのかけあい。
茶店には舞妓さんと芸子さんがいた。
吉行は、急に安住がしゃんとしたと茶化す。
冨士が乗っかったところで、安住が耳打ちする。
私のこと、褒めて紹介してくださいよと。
冨士は、独り者で北海道出身で。。。と安住を紹介し始めたところで安住は細かすぎますとつっこむ。


ついで、話は変わり吉行は、機種変したDOCOMOの携帯の、羊のコンシェルジェが友達なのだという。
その羊のコンシェルジェは、土日になると、夏場は、海に出かける格好になり、月曜になるとタキシード姿のコンシェルジェに戻る。
曜日なんて気にせず、休めばいいのにと可笑しいわよねと笑う。
そこに冨士が、羊のコンシェルジェは、祝日を知らないのよ、莫迦よねえとたたみかける。。。


どこにでもいそうなおばちゃんの会話である。
でも、ある意味、人生を楽しむ知恵を私は見いだした。
冨士の場合、とにかく何でも屈託なくしゃべりつづけること。人と関わるのが、好きらしい。
草なぎも出てきたのだが、若い頃飲み過ぎて警察の厄介になったことを披露し、私たち仲間よとけたけた笑っていた。
対する吉行は、たいしたことない日常を違った角度からとらえなおすことが巧みだ。
プライベートでも二人は、二人で旅をして、俳句を作ってまわっているのだという。
日常を違った角度からとらえなおすことができるこそ、俳句を作ることができるのであり、そのことは、非常に文化性が高いことのように感じた。

東京俳句散歩 (知恵の森文庫)

東京俳句散歩 (知恵の森文庫)


今日日、身内であっても、無関心というのが蔓延している。
年金詐取の手口のひとつかもしれないが、親の所在さえ知らないなんて、異常だ。
そんな世情のなかで、二人の生き方は、どこか懐かしさを感じさせる。
この二人の掛け合いをみていて、シンガポールの芸術家、アマンダ・ヘンのパフォーマンスを思い出した。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-94302-storytopic-86.html
ひげ摘みもパフォーマンス/シンガポールの美術家・アマンダさん/商店街でアート活動/参加者はもやしを手に交流1999年5月28日
知らない人同士、もやしのひげを摘みとりながらおしゃべりし、人と人をつなぎあわせるという一風変わったパフォーマンスが27日、那覇市の商店街で行われた。
パフォーマンスを演出したのはシンガポールの女性美術家アマンダ・ヘンさん。


これを芸術とすべきなのか、よくわからないが、確かに人と人とのコミュニケーションが生まれる瞬間、縁とでもいうべきものは、可視化されるものではなく、見逃されがちであり、神秘的でさえもある。
僕も、文化性が高いだとか抽象的言葉を使ったわけだが、僕にとっては縁とかいったものを生み出す所作や態度やきっかけとなりうるものは文化的というのがしっくりくるように思う*1
今の文化と呼ばれるものを考え直してほしい。
文化を媒介するのは、メディアであり、その情報量だけは人が掌握しきれる範疇を超えている。
結果として、何かを消費させる機能はあっても、育てて根付かせて自慢できるまで高めるなんて機能はないのではないか。
だから情報に対する北野武の態度に、少なからず共感を覚える*2

Expired
「コンピューターは嫌い。メールも嫌い。携帯電話は車の中にあるけれど出たことない。ツイッターだって、冗談の言い合いをしたり、遊ぶんならいいけど、あれを情報として扱っているバカさ加減はよく分からないね」

「情報って、町を歩いていれば入ってくる。テレビとかなるたけ見ないようにしても、なおかつ入ってくる情報は正しいと思う。でも、今の人たちは情報を探しまくるんです。自分で追いかけるから、たどりついた情報は、たいしたことなくても、すごい情報だと思ってしまう」


僕がどこに共感したかと言えば、自分で追いかけるから、たどり着いた情報はたいしたことなくてもすごい情報だと思ってしまうというところである。
自分で追いかけてたどりついたところで、その情報を消化したとは言えない。
その情報を受けて、何か発信するものを生み出せた時に、はじめて情報を使いこなしたと言えるのではないか。


この二人を見直してほしい。
二人が何気なく見つけているものって、ネットでもテレビでもあらゆるメディアを駆使したところで手に入れられるものではない。
人と人と直接つながったり、人と自然と直接ふれあったりするところから、創造されている。
小さくてもきらりと光る価値である。
これから日本が競争力を取り戻す鍵って、実はこんな何気ないものだったりするのかもしれない。

*1:そもそも、文化なんて、成り立ちからしてcultureの訳語として、福沢諭吉が使ったのが始まりだったはず。今日使われる文化といえば、飛鳥文化だ天平文化だ国風文化だ、時代で特徴的な芸術・文学をひっくるめたものだし、体育会系の対置だったり、理系の対置だったりする。そんなごった煮な概念だから、縁のきっかけとなりうるものは日常する天気の話だったりそういったものもひっくるめてその範疇と見なして差し支えないと思う。

*2:ただ情報の正しさとツイッターやテレビを見ないようにするというのは、別個だと思う。